昭和47年3月19日 朝の御理解
                                中村良一
御神訓
一 陰とひなたの心を持つなよ。



信心をさせていただくなら、心掛けとして、陰とひなたのない人間を目指さなければいけません。陰とひなたがあっては、ね。言うておることと、行うておることが違ったり、人の前だけでは、見事なことをしておるけれども、人が見ていないと、それこそ、おー、信心、教えはどこに頂いておるだろうかというようないき方の人があるです。もう、私共の心の中に、それがいつもあるわけなんです、実はね。まあ、こう申しております、私自身の場合だって、そうなんです。ほんとに、神様の御神意を受けられて、お徳を篤く受けられた方たちなどは、ここら辺のところが、ね。その陰とひなたのない心というよりも、むしろ、陰の心、言うなら、誰も知らないところ。誰も見てないところ。そういうところを大事にしておられますようですね。むしろ、大事にすると、例えば、あの、着物なんかに凝った人たちなんかの場合がそうですね。表に使ってあるもの、裏、見えないところの裏に、大変お金をかけたり致しますね。たまたま、その着物を脱いだ、脱いだときなど、その裏が素晴らしいので、ほっと、思うような、んー、まあ、着物に凝った人たちなんかは、ね。通の人。ね。私共は、どうでもひとつ、信心の通にならねばいけません。ね。そのためにはひとつ、信心を進めていく、ひとつの心がけとして、陰とひなたのバランスの取れたおかげを頂かねばならぬ。
今朝、ご神前で、えー、私、御祈念中に、まあ、これは下手な字ですけれど、こういう心という字を沢山頂いた。もう、それが、楷書で書いてあるのは、こう、中にこう、点々が打ってある。も少し崩すと、点が外に出ておる。それが、あー、楷書、行書、草書ともなると、もう、心、なんと言う字か、もう、読みきらんような、に、崩してある字がありますよね。ずーっとこう、も、書いてある。それでいて、ちゃっとバランスが取れている。ね。上手な人が書くとそうなんです、心という字を。それで私は、なるほど、信心とは、そんなら、決して、何時も楷書で書かんならんという事ではないですよね。だから、私でいうならば、いつもご結界に座っておるように、ちゃんと紋付袴着けて、えー、どこにでもおらんならんという意味じゃないです。ね。他所行く時には、洋服のときもある。奉仕させてもらっている時には、紋付袴、ね。休む時には寝巻きに替えておる。ね。食堂で、または寝間で、またはお広前で、ご結界でと、そん時そん時に、おんなじ心でおらなければならんという意味じゃないですね。陰とひなたの心を持つなという事は。私は、今日は、この心という字の、様々な書体、しかもこれは、まあ、名人が書いただろうと思われるような書体で、もう、見事な、バランスの取れた心という字を沢山頂いて、そう思うた。決して、信心というのは、ね。お昼間の、に、おるときのような、という事は要らぬ。家に帰ったら崩しても良い。ね。崩さなければ、そう出来るもんじゃない。けれど、バランスだけは、きちっと取れておかなければならない。言うなら、信心の、おー、情操と言うか、また有難いというか、そういうようなものが、何時も、おー、どこか、点の打ち所にですね。心掛けとかねばならない。ね。例えていうなら、やあ、相すまんことだったと、言うだけではいけません。相すまんことだったという時には、もう、すぐ、その次には、お詫びという点が、っと、こう押されとかないけん。ね。その、お詫びをさして頂いておると、許されたという心に、安心がいただけます。ね。だから、ここの、陰とひなたの心を持つなよという事を、おー、只今、申しますように、皆さんが、ご神前で御祈念をなさっておられるときのような心持でおると、人間は間違わんですけれども、そら、間違わんでしょうけれども、人間ですから、そんなわけには行きませんもん、ね。商売人であるなら、場合には、ね。みすみすこれは、嘘だと思うても、まあ、それを平気で言うてのかさんならん時もあります。ね。駆け引きをせんならん時もある。問題は、自分の心のなかにですね。あの、片ちんば踏んだ心がない心がけを。私は、今日は、陰とひなたの心を持つなという事を、今日は、ご神前で頂いた、その事と、そういう風に、んー、感じさせてもらいます。例えば、私が今、あー、風邪を引いて、まあ、ここ、昨日あたりから、非常に咳が、あー、咳き込みます。喉が痛む。それでもその、ずーっとせいておるわけじゃない。だから、せいて、せかない、その間は楽である。ですから、楽な間だけは、本当に、神様有り難うございます、神様有り難うございますと、もう、心からお礼が言えれる。ははー、これが本当、風邪を引かん時の、どうもないときなんかは、当たり前のように思うておる。確かに、体の上にバランスが、心のバランスが崩れておる時。健康の喜びが欠けておるとき。お礼不足であり、喜び不足だと思わずにはおられません。ね。ですから、せめて、その咳をする、その咳の間の合間だけなりとも、お礼申し上げなければと。
昨日、おー、(べんちょう?)が来ておりました。これは、くれに、三井教会の渕上先生の書いたものが出ております。母を語るという。まあ、もう、百四歳になられるそうです。福岡県下、もう、第一の長命のおかげを頂いて、しかも、元気でおられる。最近は、すこーし、耳が遠くなったと書いてある、ぐらい。そらもう、驚くばかりです。丁度、五年前に、あそこの、おー、お宅祭りに呼ばれてまいりましたが、もう、永い間、もう十何年、椛目の時代ですから、御無礼しとりましたけれども、私が行くと、「あー、あなた、椛目の先生でしたの」ち言うちから、覚えとりなさった。で、「椛目の、何々さんな、まあだ元気でおりなさるじゃろか」ち言うちから、はっは、その、昔の友達のことを言われるんです。もう、物覚えが良いし、しゃんとしておられる。そのお母さんのことを、渕上先生が書いておられます。これは、何時もそうですけれども、もう、本当に、こんな親孝行な人はないというくらい。もう、渕上先生の親孝行の信心が、お婆さん、あそこまで長生きのおかげを頂かれたんだと思われるくらい。これにも書いてありますが、お婆さんが、八十八の時だったそうで、私は、その事は知らなかったけれど、その時分の事を、毎日、親教会にお参りさして頂くと、ほんとはお届けをされております。ね。朝、目が覚めてから、母の部屋に行くと、もうその時には、五十何日間ご飯を頂かれなかったそうですね。八十八歳のときに。それにね、まあだ、息をしておるという事だけが、もう、それはもう、本当に、今日もお生かしのおかげを頂いておりますと言うて、心の底から、神様にお礼を申させて貰うとりますと言うて、学校に奉職しておられましたから、学校から帰ってこられると、すぐ、病室に行かれる。まあだ生きております。まあだ、息をしとりますという事はね。もう、有り難うしてたまらんやったと、こういう風に。そして、五十何日ぶりに、御神米でお粥さんを作って、頂かれて、それから、頂きつかれて、そして、八十八からですからね、今年が、満百四歳ですから、十何年間、また、それから風邪ひとつ引かずに、元気でおかげを頂いております。もう、それこそ、永い間のことに、母の不平不足を聞いたことがありません。私は、そういうような、例えば、八十八といえば、もう米寿の祝い。もう、米寿の祝いをさせていただいた年寄りですから、まあ、そこで、五十日間もお食事がいけないという事であったら、もう、さじを投げますね。もう、八十八じゃけん、もう、死なさったっちゃ、もうお祝いち言うぐらいにしか、言うたり思うたりしませんもんね、普通。それをもう、渕上先生の場合なんかは、もう、そうじゃない。私は、その当時のことを知っておりますけれども、もう、日々ね、生きておられるという事に対して、もう、それっこそ、子供として、心からの、その御礼を神様に申しておられる。ね。ああいう、例えば、御礼心はです。ね。また、狂っておったバランスが元に戻って、今日、長生きのおかげを頂いておられる。まあだ、嫁の、奥さんの、おー、渕上先生の奥さんの手は、何にもとりませんち。お食事であろうが、もう、一切。自分のことは自分で致しますと。ものを大切にすることはもう、驚くばかりですと。不平不足を言わないこと。もうとにかく、永年の間、母と一緒に生活して、不平不足と言うものは聞いたことがないげな。ね。そういう事も、まあ言うならば、長生きの、まあ、秘訣になっておるかも知れませんけれども、私は、何言うても、渕上先生の、んー、親孝行の信心が、ね。それこそ、福岡県第一の長寿を保って。渕上先生の信心が保たれたんだというふうに思わせていただきます。ね。バランスが取れてる。陰とひなたの心を持っていない。もう、八十八じゃけんで、今度はむつかしかかも知れんと、言うてその、気を緩めてござらん、一つも。それが、本当に、あの、日々の参拝、先生が、あの永い間、お日参りをなさるとで有名ですけれども、もう、それは、あー、お母さんのことに対しては、実に真剣です。お届けをされることでも、もう、例えばその、んー、ね。今日、母が生きておりますという事に対するところの、神様へのお礼なんです。ね。それが、私は、バランスを崩さない、あれだけ長寿のおかげを受けられた元だと思わせてもらいます。もう、娘さんが、八十何歳。娘さんたちが歩きに見えると、もう、もうそれこそ、大変注意をされる。大事にせんの、あー、風邪どん引かんごつち言うてから、もう、八十幾つの娘さんに対して、気を使われるという事です。私共も、年寄りを二人も抱えております。本当に、えー、親孝行も、それこそ日本一の親孝行もんのごと思うとるけれども、果たして、親の、そうして健康のおかげを頂いてることに対してでもです。ね。本当に、そういう、心からのお礼が申し上げられておるだろうかと。ね。改めて反省させていただくのでございます。バランスが崩れるのは、とにかく、喜び不足、お礼不足、ね。それが、心の上にも、片ちんば踏んだような心になってまいります。ね。必ずしも、信心というのは、ね。いつも、楷書で心という字を書くような、という事では決してありません。どんなに、場合には、行書になり、または草書になることがあるかも知れません。心という字の読めないような、まあ、崩し方もあります。けれども、それでて、ちゃっとバランスが取れておるという日々でありたい。私は、陰とひなたの心を持つなよというのは、そういう事だと思うです。ね。人の前だけでは見事なこと。人が見てなかったら、それが信心させて頂いておるものかというようなことを、まず、したとしてごらんなさい。もう、必ず、心のバランスが崩れます。なーにも起こって来なかったから良かったようなもんだけれども、そこで何かが起こってごらんなさい。もう、うろたえなきゃなりません。心のバランスが崩れてない時には、ね。日頃の信心さして頂いてるおかげでです。それこそ、びくともせんで済む、驚かんで済むというのは、心が平生を保っておるからです。心のバランス。陰と日向から起こってくるのです。陰とひなたの心から起こってくるのです。腹が痛いと言うても、頭が痛いと言うても、やはり、先ず、原因は、昨日食べ過ぎたけんじゃろ、昨日、おー、ぬるか風呂に入ったから風邪引いたじゃろと。と、思わずにね、自分の心のバランスの崩れておることを気付かせていただいて、まあ、現在の私が、ね。咳をする合間から合間を、本当に楽なとき、一生懸命神様にお礼を申し上げておるように、ね。私共が、なーにも、咳ひとつ出ない、熱も平熱と言う時には、ね。得てして、その事に対してでも、当たり前の事のようになる。渕上先生の例をとりましたが、ね。言うなら、満百四歳にまでもなられるお母さんのことに対して、最後に書いてあります、もう、それこそ家族中で、宝物を扱うようにして、一日でも長生きをしてもらわなきゃならんと思うておりますと、最後に締めておられます。ね。本当に、年寄りを大事にしなければならん。それを、本当に地を持ってなさっておられる。そこに、えー、渕上先生の信心があると同時に、そういう暮らしの信心が、お母さんをして、百四歳までも長生きのおかげを頂かれるような、ね。おかげを頂いておられるんだと思うのです。子供のことは、一生懸命願うけれども、親の事は願わん。忘れとる。これではもう、すでにバランスが崩れてしもうております。ね。だから、本当に親孝行の人はです。子供のことよりも、それこそ、親のことを一心に願うでしょう。まあ、それは出来んにしましても、せめて、バランスの崩れない、ね。子供の事を五、願うならば、親の事も、五は、願わしてもらうくらいなね。信心だけは頂きたいものですね。どうぞ。